新HPCの歩み(第2回)-前史(b)-
2023.08.10

日本では1902年の矢頭良一(1878 ~1908)の「自働算盤」が最初の実用計算器であろう。筆者が学生の頃、「タイガー」は機械式計算器の代名詞となっていた。19世紀半ばのイギリスのバベッジは、機械式の自動計算機を考案したが、凝りすぎて実現しなかった。

機械式計算器


1) 手動計算器

最初の計算機械はドイツのチュービンゲン大学教授のヴィルヘルム・シッカート(Wilhelm Schickard, 1592-1635) が作ったものといわれているが、計算器の実物は存在していない。現在残されている最古の計算機はフランスの哲学者・数学者ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal, 1623-1662)が発明・製作した機械式の“パスカリーヌ”である。この機械は1642年に試作され加減算を対象としていたが、1674年にドイツの哲学者ゴットフリート・ライプニッツ(1646-1716)が、段付き歯車を用いて、加算と減算のほか加算の繰り返しにより乗算もできるようにした機械式計算器を発明している。1820年代はじめにフランスのチャールス・トーマスがライプニッツの方式を改良しアリスモメトールという機械式計算器をはじめて商品化した。その後ロシア居住のスエーデン人W.T.オドナー(W.T.Odhner)はアリスモメトールに改良を加え、ライプニッツの段付き歯車を出入歯車式に改良した計算器を開発した。オドナーは1878年に実用計算器を販売し、この方式が広く用いられた。


2) チャールズ・バベッジ(階差機関、解析機関)

19世紀に活躍したイギリスの数学者Charles Babbage (1791~1871)は、機械式の自動計算機を考案した。大駒誠一氏の記事によると、1822年には、多項式関数の値を差分により計算する階差機関(Difference Engine)を考案し、1822年から設計を開始した。第一と第二とがあり、第一階差エンジンは10年の歳月と£17000の巨費(今でいうと10億円ぐらいであろうか?)をつぎ込んだが完成せず、1834年に開発は中止された。打ち切りの前年、演算部分のみ1/7規模の機械を完成させ稼働した。その後、1854年スエーデンの印刷業者のPer Georg Scheutz父子が第一階差エンジンを完成させた。第二階差エンジンは、設計図だけで製作に着手はされなかったが、1991年になって、イギリスの科学博物館が当時の技術を使って、£750000(このころの円レートで、2億円弱)を投じて完成させた。

Babbageは続いて、パンチカードでプログラムできる解析機関(Analytical Engine)を構想し、その設計を改良し続けた。これも製作はされず、失意のうちに世を去った、と言われている。詩人Byronの娘でLovelace侯爵夫人のAdaは、解析機関によりベルヌーイ数の数列を計算するプログラムを書いた。「最初のプログラマ」と言われる。1987年、米国国防総省が規格化した言語Adaは、彼女を記念して名付けられた。

2019年3月7日、イギリスのエリザベス女王(当時92)がロンドンの科学博物館を訪問した際の写真とコメントを、初めてインスタグラムに投稿したと話題になったが、その中で、こう述べている。「王室文書館から、Charles Babbageから私の高祖父にあたるPrince Albertに宛てた手紙が科学博物館にありました。Prince Albertは、1843年にBabbageが設計した階差機関の原型を見ております。Babbageは手紙の中で、Queen VictoriaとPrince Albertに対し、解析機関の発明について説明し、Lord Byronの娘Ada Lovelaceがその上で動くプログラムを初めて書いたことを述べています。」


3) Burroughs社

1886年、ミズーリ州St. Louisで、William Seward Burroughs IはAmerican Arithmometer Companyを設立し、機械式計算器であるAdding machineを製造販売した。1904年、Detroitに移転し、Burroughs Adding Machine Companyと改名した。当時、アメリカ国内で最大の機械式計算機の会社に成長した。Burroughs Corporationに変更したのは1953年である。


4) 矢頭良一「自働算盤」

わが国では1902年の矢頭良一(1878 ~1908)の「自働算盤」が最初の実用計算器であろう。矢頭良一は独力で計算器の研究を行い、1903年に特許取得後に日本で最初の機械式卓上計算器を製造した。矢頭は父親の事務を手伝いながら計算器の発想を得たといわれ、中学を中退後私塾で基礎学科を習得し、飛行研究と卓上計算器の研究を行った。

3年間の苦労の上完成した機械式卓上計算器(自働算盤)の模型と、長年の研究結果をまとめた「飛翔原理」の論文を持って1901年に福岡日日新聞の高橋主筆に面会したが、高橋は矢頭の能力を高く評価し小倉第12師団の軍医部長森林太郎(森鴎外)に紹介状を書いた。鴎外は矢頭の人柄と研究に感銘し、東京帝国大学の教授に仲介の労をとった。

1902年3月に矢頭は自働算盤の専売特許を出願申請するとともに、全金属製の自動算盤を完成させた。特許は1903年1月に許可され、3月に工場を設けて日本で初めて計算機を製造した。1個の円筒と22の歯車を用い、入力は算盤と同じ2・5進法の十進法加減乗除の手動式卓上計算機で、1台250円(現在の1億円とも)と高価であったが二百数十台が販売された。

矢頭良一は「自働算盤」だけでなく、「飛行機」の発明、開発にも関心を持っていた。「自働算盤」の売上金は矢頭の動力飛行機の研究に投入された。矢頭良一は31歳の若さで他界した。一台の「自動算盤」が豊前松江の矢頭良一の妹の家系にあたる久冨家に保存されていることが1960年代に発見され、北九州市文学館に寄託されていたが、2008年7月、「現存する最古の国産機械式計算機である」ことが日本機械学会により確認された。2010年8月18日、矢頭の親族が、「自動算盤」を関連資料とともに北九州市に寄贈した。(詳細は山田昭彦著『矢頭良一の機械式卓上計算機「自動算盤」に関する調査報告』参照)蛇足であるが、日本で初めて「飛行器」を考案したのは二宮忠八で、「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」とも言われる。


5) 大本寅次郎(タイガー計算器)

大阪で大本鉄工所を経営していた大本寅次郎(1887~1961)は、1919年、ドイツのBrunsviga計算機(1892)をモデルに機械式計算器の開発を始め、1923年に1号機が完成した。「虎印計算器」の名称で発売されたが、その後“TIGER BRAND”となり、その後「タイガー計算器」と変わった。1930年5月、タイガー計算器製作所を、資本金40万円のタイガー計算器株式会社に改組した。「タイガー」は機械式計算器の代名詞となった。筆者が大学生・院生のころまだ盛んに使われており、「物理学会会場で、タイガーを回しながら座長をしていた」猛者がいたという噂を聞いたことがある。自分が発表する論文の計算が間に合わなかったのであろうか。1970年まで製造販売された。


6) 電動機械式計算機

筆者が学生のころ、電動式の計算機も使われていた。学生実験の部屋にあり、割り算をすると、厚いクッションが敷かれていたにもかかわらず、ものすごい機械音を立てながら机の上で踊るように計算していたことを思いだす。でも、手回し計算器とは異なり、割り算が終わるまで待っていればいいので、仕事は楽になった。木暮仁の「電動計算機」によると、Marchant Silent Speed Model 10ACT、Friden Model ST、Monroe Model CSA-10などである。多くは、桁ごとに0~9の数値のキーがあった。テンキー式のものもあったような気がする。筆者自身は、学生実験の際くじ引きでカシオのリレー計算機(後述)が当たり、ずっと楽であった。電動のタイガーとか、日本製の電動計算器とかもあったようであるが、筆者は触ったことがない。

次回はパンチカードマシンについて述べる。